2026年10月8日。
最近、すっかり宋磁(そうじ)に夢中になっている。
きっかけは、以前訪れた東京ステーションギャラリーの『水滸伝』に関する展覧会だった。
展覧会を見たあと、中国のテレビドラマ『水滸伝』を見始めた。同時に本も読み始め、物語の世界を少しずつ楽しんでいる。
宋江や呉用をはじめ、個性豊かな人物たちが登場する。義を重んじる人間関係や、知略を尽くす駆け引きが面白い。
そんなふうに物語を楽しんでいるうちに、展覧会で見たある展示品を思い出した。
宋の時代の磁器である。

そういえば、あの青い器は何だったのだろう。
気になって調べ始めた。
すると、これが実に面白い。
宋代の窯の歴史を調べる。青磁の種類を調べる。釉薬の違いを調べる。日本に伝わった宋磁について調べる。
気づけば、すっかり宋磁に魅了されていた。
東京ステーションギャラリーで見た、青磁の水仙盆
展覧会で撮影した写真がある。
一枚目には、ガラスケースの中に置かれた、淡い青緑色の器が写っている。

丸みを帯びた長方形のような形をしており、縁にはやや濃い色が現れている。
装飾はほとんどない。
龍の絵もない。花の文様もない。華やかな彫刻もない。
ただ、滑らかな曲線と、静かな青色がある。
それなのに、妙に美しい。
二枚目の写真には、作品の解説が写っている。
作品名は「青磁 水仙盆(せいじ すいせんぼん)」。
中国・北宋時代、11世紀末から12世紀初頭の作品で、河南省の汝窯(じょよう)で焼かれたものだという。
大阪市立東洋陶磁美術館の所蔵品で、住友グループから寄贈された安宅コレクションに含まれる。
解説には、この水仙盆と呼ばれる形の汝窯作品は、世界で6点しか知られていないと書かれていた。
そして、見出しにはこうある。
「引き込まれるような天青色」
なるほど。
まさに、そんな色だった。
汝窯という、北宋宮廷のための磁器
宋磁について調べていくと、汝窯という名前に行き着く。
汝窯は、中国の北宋時代に宮廷向けの青磁を焼いたことで知られる窯である。

中国陶磁史の中でも、特に高く評価されている。
北宋の都は開封にあった。
当時の宮廷文化では、書画や詩文だけでなく、陶磁器にも洗練された美意識が求められた。
汝窯の青磁には、派手な装飾よりも、器の形と釉薬の色そのものを重視する美しさがある。
その代表的な色が「天青色」である。
青といっても、空のような鮮やかな青ではない。
少し灰色を含んだ、柔らかな青緑色。
見る角度や光の当たり方によって、青にも緑にも見える。
写真に写っている水仙盆も、まさにそういう色をしている。
しかも、よく見ると単なる一色ではない。
釉薬には奥行きがあり、表面にはしっとりとした質感がある。
器の縁は薄く、全体の輪郭を引き締めている。
装飾が少ないからこそ、わずかな形の違いや色の変化が際立つ。
何も描かれていないのに、いつまでも眺めていたくなる。
不思議な器である。
千年近く前の人が、美しいと思ったもの
この水仙盆が作られたのは、11世紀末から12世紀初頭である。
今からおよそ九百年も前のことだ。
日本でいえば、平安時代の終わりに近い。
そんな昔に作られた器を、2026年の東京で見ている。
そして、美しいと思っている。
このことが、なんとも面白い。
当時の職人は、どんな思いでこの色を出そうとしたのだろう。
窯の温度。
土の性質。
釉薬の調合。
焼成時の空気の状態。
陶磁器の色は、さまざまな条件によって変化する。
現代のように温度や雰囲気を精密に制御できる設備がない時代に、職人たちは経験と工夫を重ねながら、この色を生み出した。
一方で、宮廷の人々は、その器に美しさを見いだした。
そして九百年後の自分も、同じ器を見て美しいと感じている。
もちろん、当時の人と自分がまったく同じ感覚を持っているとは限らない。
それでも、時代も国も生活も違う人間が、一つの器を通じてつながっているように感じる。
美しいものには、時間を越える力があるのかもしれない。
なぜ、こんなに簡素な器が美しいのだろう
自分が特に惹かれたのは、装飾の少なさだった。
美術品というと、精巧な絵付けや複雑な模様を想像することがある。
もちろん、それも素晴らしい。
けれど、この水仙盆は違う。
ほとんど何も飾っていない。
形と色だけで勝負している。
それなのに、十分に美しい。
むしろ、何もないことが美しさを強めているようにも思える。
考えてみれば、日本の茶道具にも、似たような美意識を感じることがある。
素朴な茶碗。
静かな色合い。
余計な装飾のない道具。
ただし、宋代の宮廷陶磁と、日本の茶道で育まれた侘びの美意識は、同じものではない。
歴史も用途も価値観も異なる。
それでも、装飾の多さだけが美しさを決めるわけではない、という点には共通するものを感じる。
形が整っていること。
色が美しいこと。
素材の魅力が生きていること。
それだけで、ものは十分に美しくなれる。
この器を見ていると、そんなことを考えさせられる。
水滸伝から、宋の文化へ
そもそも、自分が宋磁に興味を持ったのは『水滸伝』がきっかけだった。
『水滸伝』の物語の舞台は北宋末期である。
宋江たちが活躍する世界には、政治や軍事だけでなく、当時の人々の暮らしや文化も背景として存在している。
もちろん、『水滸伝』は後世に成立した文学作品であり、描かれた風俗のすべてが北宋当時の姿を正確に再現しているわけではない。
それでも、物語を読んでいると、その時代そのものに興味が湧いてくる。
宋の政治はどうなっていたのか。
科挙とはどんな制度だったのか。
当時の都市では、人々はどんな暮らしをしていたのか。
どんな建物に住み、どんなものを食べ、どんな器を使っていたのか。
こうして興味が広がっていく。
一冊の本から、別の本へ。
文学から歴史へ。
歴史から美術へ。
美術から工芸へ。
最初は宋江の人柄に惹かれていたのに、気づけば九百年前の青磁の釉薬について調べている。
自分でも少しおかしいと思う。
けれど、こういう知識のつながり方が好きなのだ。
宋磁が欲しい。でも、無駄ではないだろうか
さて、困ったことが一つある。
宋磁について調べているうちに、自分でも青磁の器が欲しくなってしまった。
もちろん、博物館に展示されるような汝窯の名品を買えるわけではない。
そもそも、そんなものを日常で使おうとも思わない。
欲しいのは、宋磁の雰囲気を感じられる、普段使いの器である。
茶碗でもいい。
湯呑みでもいい。
青磁釉の美しい器が一つあれば、毎日の食事やお茶の時間が少し楽しくなるのではないか。
そんなことを考える。
一方で、別の自分が問いかけてくる。
「本当に必要なのか」
家にはすでに食器がある。
茶碗もある。
湯呑みもある。
新しい器を買わなくても生活には困らない。
それなら、買うのは無駄なのではないか。
この問いは、案外難しい。
必要なものだけで生きるのが、豊かな暮らしなのか
人間が生きていくために、本当に必要なものはそれほど多くない。
食べ物。
水。
衣服。
住む場所。
そして、健康や人とのつながり。
それ以外のものは、なくても生きていけるものが多い。
では、なくても生きていけるものは、すべて無駄なのだろうか。
そう考えると、少し違う気がする。
花を飾る。
好きな茶碗でお茶を飲む。
美しい本を本棚に置く。
書道の道具を揃える。
気に入った器でご飯を食べる。
どれも、生存のために絶対必要なものではない。
けれど、そういうものがあることで、毎日の暮らしに楽しみが生まれる。
人間は、ただ生き延びるためだけに暮らしているわけではない。
美しいものを見たい。
面白いことを知りたい。
好きなものに囲まれて暮らしたい。
そういう気持ちもまた、人間らしさの一部なのだと思う。
物を増やすことと、暮らしを豊かにすることは違う
ただし、欲しいと思ったものを何でも買えばよいわけでもない。
買うこと自体が目的になってしまうこともある。
手に入れた瞬間は嬉しい。
けれど、数日後には興味が薄れ、棚の奥にしまい込んでしまう。
そういう買い物なら、少しもったいない。
大切なのは、物の数ではなく、その物とどう付き合うかではないだろうか。
たとえば、青磁の茶碗を一つ買ったとする。
毎朝、その茶碗でご飯を食べる。
あるいは、好きな湯呑みでお茶を飲む。
器を洗い、手入れをし、長く使う。
そのたびに宋の歴史を思い出す。
東京ステーションギャラリーで見た水仙盆を思い出す。
『水滸伝』を読んでいた時間を思い出す。
そういう器なら、単なる食器以上の意味を持つかもしれない。
高価なものをたくさん集める必要はない。
本当に気に入ったものを、少しだけ持つ。
そして、日常の中で使う。
それは浪費とは少し違う気がする。
美しいものを、鑑賞するだけで終わらせない
博物館の美術品は、基本的にはガラスケースの向こう側にある。
触れることはできない。
使うこともできない。
ただ、眺める。
それはそれで素晴らしい体験である。
けれど、工芸品にはもう一つの楽しみ方がある。
実際に使うことである。
陶磁器は、もともと人間の暮らしと深く結びついてきた。
水を入れる。
花を生ける。
食事を盛る。
お茶を飲む。
もちろん、宮廷のために作られた特別な器と、庶民の日用品を同じように扱うことはできない。
それでも、器というものには、手に取り、生活の中で使うという側面がある。
宋磁の名品を鑑賞することと、宋磁に着想を得た現代の器を使うこと。
この二つは、両立してよいのだと思う。
むしろ、博物館で見た美しさを、自分の日常へ少し持ち帰ることができたなら、それは楽しい。
一つの器から、世界が広がる
振り返ってみると、面白い流れだった。
東京ステーションギャラリーで『水滸伝』の展示を見る。
『水滸伝』のドラマを見始める。
本を読み始める。
宋江や呉用に興味を持つ。
宋の時代について調べる。
展示されていた宋磁を思い出す。
汝窯や龍泉窯について調べる。
青磁の色や釉薬に興味を持つ。
そして、普段使いの器まで欲しくなる。
最初から宋磁を勉強しようと思っていたわけではない。
ただ、気になったものを一つずつ追いかけていただけである。
それなのに、気づけば新しい世界に入り込んでいた。
こういうことがあるから、博物館や美術館へ行くのは面白い。
その場では、何も起きないこともある。
展示を見て、帰る。
けれど、数週間後にふと思い出す。
気になって調べる。
そこから、新しい興味が生まれる。
一度見たものが、時間をおいて自分の中で育っていく。
学びというものは、必ずしも計画どおりに進むわけではないのだろう。
千年前の青を、毎日の暮らしへ
東京ステーションギャラリーで見た青磁の水仙盆。
今あらためて写真を眺めると、やはり美しい。
淡い青緑色。
静かな曲線。
余計な装飾のない姿。
九百年近く前の職人が作り上げたものが、今も人の心を動かしている。
自分が欲しいと思っているのは、単なる食器ではないのかもしれない。
あの美しさを、日々の暮らしの中でも少し感じていたいのだと思う。
だからといって、すぐに買う必要はない。
いろいろな器を見てみよう。
青磁の産地を調べてみよう。
日本の青磁も見てみよう。
そして、本当に気に入ったものがあれば、一つ買ってみてもいい。
毎日使う器なら、少しくらいこだわってもよいだろう。
ふむ。
人間は、ときどき役に立たないように見えるものに心を奪われるものじゃ。
じゃが、美しいものを美しいと思う心まで、無駄と決めつける必要はないのかもしれんのう。
大切なのは、たくさん持つことではなく、手に入れたものを大切にできるかどうか。
九百年前の青磁を眺めながら、そんなことを考えた。
さて。
あなたには、生活に絶対必要というわけではないけれど、そばに置いておきたいと思う美しいものがあるじゃろうか。












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