命を見送った翌日、水族館へ行った――サンシャイン水族館で考えた、生き物と人間の関係

サンシャイン水族館
サンシャイン水族館

前日、15年間一緒に生きてきた銀バトが亡くなった。

2011年に北千住のペットショップで出会い、長い時間をともに過ごしてきた相棒だった。

今年に入ってから弱っていたので、いつか別れが来ることは分かっていた。

それでも、実際にいなくなってしまうと、やはり寂しい。

昨日まで生きていた存在が、今日はもういない。

その事実を、すぐに受け入れることはできなかった。

翌日、池袋に用事があった。

せっかく外へ出るのだから、どこかに寄ってみようと思った。

向かったのは、サンシャイン水族館だった。

特別に見たい魚がいたわけではない。

ただ、少しでも悲しみを紛らわせたかった。

サンシャイン水族館
サンシャイン水族館

悲しいとき、別の生き物を見に行く

水族館へ行くという選択は、今考えると少し不思議だった。

昨日、大切な生き物を亡くしたばかりである。

それなのに、翌日には別の生き物たちを見に行っている。

けれど、そのときは自然と足が向いた。

水槽の中を泳ぐ魚。

水の中を自在に動く生き物たち。

それぞれが、こちらの事情とは関係なく生きている。

自分が悲しんでいても、魚は泳いでいる。

ペンギンは歩いている。

サンシャイン水族館
サンシャイン水族館

アシカも、いつものように活動している。

当たり前のことなのだが、少し不思議な気持ちになった。

自分にとっては、昨日、大切な命が一つ失われた。

けれど、世界には今も無数の命が存在している。

それぞれが、それぞれの時間を生きている。

そんな光景を眺めているうちに、少しだけ気持ちが落ち着いていくような気がした。

アシカとペンギンを眺める

サンシャイン水族館では、アシカのショーを見た。

サンシャイン水族館
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飼育スタッフと息を合わせて動くアシカ。

その姿を見ていると、自然と目が向く。

動物は、人間の言葉をそのまま理解しているわけではない。

それでも、日々のトレーニングを通じて、人間と一定の意思疎通を図ることができる。

そこには、動物の学習能力だけでなく、飼育スタッフとの関係や、積み重ねられた時間があるのだろう。

もちろん、動物が芸を披露しているからといって、それだけで幸せだとは言えない。

大切なのは、動物に無理をさせず、その健康や行動特性に配慮することだと思う。

そうしたことを考えながら、アシカの姿を眺めた。

サンシャイン水族館
サンシャイン水族館

ペンギンも見た。

ペンギンは、陸上では少し不器用そうに歩く。

けれど、水中では驚くほど滑らかに泳ぐ。

同じ生き物なのに、環境が変わると、これほど動きが違う。

人間の目には愛らしく映る姿も、ペンギンにとっては生きるために進化してきた身体の特徴である。

生き物というものは、本当に面白い。

ハトが亡くなった悲しみは消えない。

それでも、目の前の動物たちを見ている間は、少しだけ別のことを考えることができた。

太刀魚の日という、知らなかった記念日

館内では、11月11日の「太刀魚の日」について宣伝していた。

サンシャイン水族館
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そんな記念日があるのかと思った。

太刀魚は、細長く銀色に輝く身体を持つ魚である。

その姿が刀に似ていることから、太刀魚と呼ばれるようになったという説がある。

11月11日は、細長い太刀魚の姿を数字の「1」に見立てた記念日として知られている。

魚にも、こういう記念日があるのだ。

サンシャイン水族館
サンシャイン水族館

普段、太刀魚といえば、食卓に並ぶ魚として考えることが多い。

けれど、水族館では、その魚を一つの生物として見ることができる。

どこに生息しているのか。

何を食べるのか。

どのように泳ぐのか。

どんな身体の特徴を持っているのか。

同じ魚でも、食材として見るのと、生き物として見るのとでは、ずいぶん印象が違う。

水族館には、そうした視点を変える力があるのだと思う。

水族館は、単なる娯楽施設なのだろうか

水族館を歩きながら、もう一つ考えたことがある。

水族館には、どんな役割があるのだろう。

もちろん、娯楽施設としての側面は大きい。

家族で出かける。

デートで訪れる。

珍しい魚を見る。

ショーを楽しむ。

自分も今回は、気分転換のために訪れた。

けれど、水族館の役割はそれだけではない。

一般に、水族館には、展示を通じた教育、動物の飼育や繁殖、調査研究、種の保全といった役割もある。

野生では観察が難しい生き物の行動を調べることができる。

繁殖や飼育の技術を蓄積することもできる。

来館者に、生物の多様性や環境問題について考えるきっかけを提供することもできる。

特に、海の中の生き物は、普段の生活ではなかなか見ることができない。

水族館があることで、私たちは遠い海の生物を身近に感じられる。

ただ面白い、かわいいというだけで終わらず、その生き物が自然界でどのように暮らしているのかまで知ることができれば、水族館の価値はさらに大きくなるのだろう。

動物を飼うことと、動物を守ること

一方で、水族館には難しい問題もある。

本来、海や川で暮らしている生き物を、人間が管理する施設の中で飼育することは、本当に望ましいのだろうか。

広い海を泳ぐ動物にとって、水槽は十分な環境なのだろうか。

サンシャイン水族館
サンシャイン水族館

人間が楽しむために動物を飼育することには、どこまで正当性があるのだろうか。

こうした問いは、簡単には答えられない。

水族館には保全や研究の役割がある。

けれど、すべての展示が自動的に動物の保護につながるわけではない。

動物の種類によって、必要な環境も違う。

飼育方法や施設の広さ、健康管理、繁殖の取り組みなども重要である。

だから、水族館があること自体を無条件に肯定するのでも、動物を飼育しているという理由だけで否定するのでもなく、実際にどのような取り組みをしているのかを知る必要があると思う。

これは、ペットを飼うことにも通じている。

人間が動物を飼うとき、その動物の暮らしを大きく左右することになる。

食事を決める。

住む場所を決める。

行動できる範囲を決める。

病気になったときの対応を決める。

動物は、自分の希望を人間の言葉で伝えることができない。

だからこそ、飼う側には大きな責任がある。

ハトは、何を感じて生きていたのだろう

水族館で生き物たちを眺めていると、どうしてもハトのことを思い出した。

ハトは、15年間をどのように感じていたのだろう。

楽しかったのだろうか。

安心して暮らせていたのだろうか。

自分たち家族のことを、どのように認識していたのだろうか。

考えても、答えは出ない。

けれど、答えが出ないからといって、考える意味がないわけではない。

動物を飼う人間は、自分が愛情を注いでいるというだけで満足してはいけないのだと思う。

相手にとって、何がよい環境なのか。

どんな行動を必要としているのか。

苦痛や不安を感じていないか。

そうしたことを学び続ける必要がある。

ハトと過ごした15年間についても、もっとできることがあったのかもしれない。

もちろん、過去を変えることはできない。

それでも、これから別の生き物と関わるとき、今回考えたことを生かすことはできる。

ハトが自分に残してくれたものの一つは、命を預かる責任について考える機会だったのかもしれない。

生き物を見ることで、悲しみが少し和らぐ

大切な存在を亡くしたとき、人はどうすればよいのだろう。

家で静かに過ごす人もいる。

誰かと話したくなる人もいる。

思い出の場所を訪ねる人もいる。

自分はこの日、水族館へ行った。

悲しみを忘れたかったのかもしれない。

別の生き物を見て、少し気持ちを紛らわせたかったのかもしれない。

実際、アシカやペンギンを見ている間は、少し気分が変わった。

サンシャイン水族館
サンシャイン水族館

けれど、ハトのことを忘れたわけではない。

むしろ、生き物を見ているからこそ、ハトのことを考える場面もあった。

悲しみを紛らわせるというのは、必ずしも悲しい出来事を忘れることではないのだろう。

悲しみを抱えたまま、別のものに目を向ける。

少し笑う。

少し興味を持つ。

そして、また思い出す。

そうやって、少しずつ日常へ戻っていくのかもしれない。

池袋大仏にもお参りする

水族館を訪れたあと、池袋大仏にもお参りした。

池袋大仏
池袋大仏

池袋大仏は、南池袋の仙行寺に安置されている大仏である。

池袋の繁華街から少し歩いたところに、こうした祈りの空間がある。

東京という街は、本当に不思議だ。

高層ビルがあり、商業施設があり、水族館があり、寺がある。

それぞれまったく違う目的の場所なのに、同じ街の中に存在している。

水族館では、生きている動物たちを見た。

寺では、静かに手を合わせた。

どちらも、今の自分には必要な時間だったのかもしれない。

生き物を見て、命の面白さを感じる。

仏前で手を合わせ、命の限りについて考える。

一見すると違う行動だが、どちらも命について考える時間になっていた。

生きている命を、大切にする

ハトが亡くなった翌日、水族館へ行った。

アシカを見た。

ペンギンを見た。

太刀魚の日について知った。

そして、水族館が持つ保護や研究の役割について考えた。

悲しみを紛らわせるために出かけたはずだったが、結局、また命について考える一日になった。

それでも、行ってよかったと思う。

世界には、さまざまな生き物がいる。

それぞれが異なる身体を持ち、異なる環境で生きている。

人間も、その中の一つの生き物である。

私たちは、ほかの生き物を観察し、研究し、飼育し、ときにはその命を利用して暮らしている。

だからこそ、自分たちの都合だけで生き物を見てはいけないのだと思う。

ハトは、もういない。

けれど、ハトと過ごした時間を通じて、生き物を大切にしたいという気持ちは、以前より強くなった気がする。

ふむ。

大切な命を失った悲しみは、すぐには消えないものじゃ。

無理に忘れようとしなくてもよい。

ときには外へ出て、ほかの生き物たちが生きている姿を眺めてみる。

すると、悲しみの中にも、少しずつ新しい気づきが生まれることがあるのかもしれんのう。

ハトが亡くなった翌日。

自分は水族館で、たくさんの生き物たちを見た。

そして、改めて思った。

生きている命を、生きているうちに大切にしたい。

さて。

あなたは、身近な動物たちがどんなことを感じ、どんな暮らしをしているのか、考えたことがあるじゃろうか。

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寺社を巡り、山を歩き、本を読み、ときどき旅に出ます。
空海をはじめ、仏教・歴史・文化について学ぶのが好きです。

「限りある人生を、どう生きるか。」
そんなことを、よく考えています。

まだ修行の途中。

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