2026年8月。
友人5人で、京都北部から舞鶴、天橋立、伊根、そして京都を巡る旅に出た。
美山では、少し変わった「ぬいぐるみ神社」を訪ねた。
その後は舞鶴へ向かい、ふるるファームのコテージに泊まる。
翌日は舞鶴赤れんがパークと赤れんが博物館を歩き、天橋立を端から端まで徒歩で渡った。
智恩寺、成相寺、浦嶋神社を巡り、伊根の舟屋へ。
最後の日は京都へ戻り、善峯寺、楊谷寺、そして大原の三千院を訪ねた。
ずいぶん欲張りな三日間じゃのう。
じゃが、この旅で面白かったのは、訪れた場所の数だけではなかった。
大人になると、友人と過ごす時間が減っていく
学生のころは不思議なもので、特別な約束などしなくても友人が近くにいた。
学校へ行けば会う。
授業が終われば話す。
なんとなく飯を食べる。
なんとなく遊びに行く。
ところが大人になると、そうはいかん。
仕事がある。
家庭がある人もいる。
住む場所も違う。
休日も違う。
五人の予定を合わせて、数日間一緒に旅をする。
それだけでも、実はなかなか難しいことなのじゃ。
一緒に歩くと、その人が少し見えてくる
旅をすると、人の性格がよく見える。
朝に強い人。
時間をきっちり守る人。
予定を変更しても全く気にしない人。
疲れていても黙々と歩く人。
突然寄り道をしたがる人。
天橋立を歩いて渡れば、当然疲れる。
車で長時間移動すれば、予定通りにいかないこともある。
それでも一緒に飯を食べ、一緒に風呂へ入り、また翌朝になれば同じ場所へ向かう。
普段数時間会うだけでは分からない、その人の一面が見えてくる。
旅とは、観光地を見るだけではなく、人を見る時間でもあるのかもしれんのう。
「また今度」は、意外と難しい
ふむ。
ここで一つ、考えてみたいことがある。
友人との間で、
「また今度行こう」
という言葉を使ったことはないかのう。
便利な言葉じゃ。
じゃが、その「今度」はいつ来るのじゃろう。
一年後かもしれない。
五年後かもしれない。
あるいは、結局来ないかもしれない。
人間はつい、今ある関係がこれからも続くと思ってしまう。
けれど仕事が変わることもある。
引っ越すこともある。
結婚することもある。
体調を崩すこともある。
人間関係そのものが変わることだってある。
今日と同じ五人が、来年も同じように集まれる保証など、実はどこにもないのじゃ。
思い出は、勝手にはできない
伊根の舟屋を眺めたこと。
天橋立を歩いたこと。
寺の石段を登ったこと。
コテージで夜を過ごしたこと。
温泉に入ったこと。
そういう記憶は、何もしなければ生まれなかった。
誰かが「行こう」と言い、
みんなが予定を空け、
実際にそこまで出かけたから残ったものじゃ。
思い出というものは、時間が勝手に作ってくれるものではない。
少し面倒でも予定を合わせて、
少しお金を使って、
少し疲れて、
わざわざ一緒に何かをする。
その積み重ねが、いつの間にか思い出になるのじゃろう。
人生には「一緒にいた時間」も残る
旅から帰れば、またそれぞれの日常へ戻っていく。
仕事をして、飯を食べて、眠る。
今回の旅だって、何年かすれば細かい順番は忘れてしまうかもしれん。
それでも、
「あの五人で京都の方へ行ったな」
という記憶は残るじゃろう。
人生を振り返ったとき、案外大切なのは、何を所有していたかだけではないのかもしれん。
誰と飯を食べたか。
誰と歩いたか。
誰と笑ったか。
誰と同じ景色を見たか。
そういう時間もまた、その人の人生を作っているのじゃ。
だから、会いたい人がいるのなら、
「いつか」だけで終わらせず、ときには予定表を開いてみると良いぞ。
さて。
あなたには今、
「また今度」と言ったままになっている人はおらんかのう。













-485x273.jpg)



コメントを残す