2026年10月、東京都江東区の深川江戸資料館を訪れた。

ここには、江戸時代の深川の町並みを実物大で再現した展示がある。

長屋がある。商家がある。路地がある。井戸がある。
建物の中には当時の暮らしを思わせる道具が置かれ、江戸の町に入り込んだような気分になる。

展示を眺めながら、ふと思った。
「こんなところに住みたいな」
もちろん、江戸時代の生活に戻りたいというわけではない。

エアコンも冷蔵庫もない。水道やトイレだって、現代とはまったく違う。火事や病気への備えも十分ではなかった。
それでも、木でできた家、畳の部屋、障子、路地に面した暮らしを見ていると、不思議と心が落ち着く。
そして、こんなことを考えた。
日本人のDNAの中には、和式建築を好む何かがあるのだろうか。
江戸の町に入ってみる
深川江戸資料館の常設展示は、江戸時代末期、天保年間の深川佐賀町周辺の町並みを想定して再現されている。
展示されているのは、城や大名屋敷のような豪華な建築ではない。
町で暮らす普通の人々の住まいである。
商いをする家。
職人たちが暮らす長屋。
人が行き交う路地。
日々の暮らしに必要な道具。
こういうものを見ていると、歴史が少し身近になる。

歴史の本には、将軍や武将、政治家の名前がたくさん出てくる。
けれど、江戸時代を生きていた人の大半は、歴史の教科書に名前が残らない普通の人たちだった。
朝起きて、仕事をする。
食事をする。
近所の人と話す。
子どもを育てる。
夜になれば眠る。
そういう毎日が何十年、何百年と積み重なって、江戸という町ができていた。
展示の建物を眺めながら、そこで暮らしていた人たちの日常を想像する。
すると、歴史が単なる過去の出来事ではなく、誰かが実際に暮らした時間なのだと感じられる。
木と畳と障子がつくる空間
特に惹かれたのは、建物そのものだった。
木の柱。
畳。
障子。
引き戸。
必要なものだけを置いた小さな部屋。
現代の住宅と比べれば、設備も収納も十分ではない。
それでも、妙に居心地がよさそうに見える。
何が違うのだろう。

一つは、素材なのかもしれない。
木には木目がある。
畳には独特の質感がある。
障子を通した光は、ガラス窓から直接入る光とは違う柔らかさを持つ。
そして、もう一つは空間のつくり方である。
和室は、家具をたくさん置くことを前提にしていない。
座布団を置けば居間になる。
膳を出せば食事の場所になる。
布団を敷けば寝室になる。
同じ部屋が、時間によって役割を変える。
限られた空間を柔軟に使う仕組みがある。
これは、現代の住まいにも応用できそうだ。
日本人のDNAに、和室は刻まれているのか
ここで最初の疑問に戻る。
なぜ、自分は和式建築を見ると落ち着くのだろう。
日本人だからなのだろうか。
ただ、これを「DNAに刻まれている」と説明するのは、少し慎重でありたい。
日本人が遺伝的に畳や障子を好むという科学的根拠が確立しているわけではない。
そもそも、私たちが思い浮かべる伝統的な和室も、長い歴史の中で少しずつ成立したものである。
畳が部屋全体に敷かれるようになったのも、最初からではない。現在の和室につながる書院造などの建築様式が広まるまでには、長い変化があった。
江戸時代の住まいも、武家屋敷、商家、長屋、農家では大きく異なる。
つまり、「日本人が昔から同じ和室に住んできた」というわけではない。
それでも、木や畳、障子に親しみを感じる人は少なくないだろう。
その理由の一つは、文化的な記憶にあるのかもしれない。
子どもの頃に見た祖父母の家。
旅先で泊まった旅館。
寺の本堂。
古い日本家屋。
時代劇や映画に登場する町並み。
実際に暮らした経験がなくても、繰り返し目にしてきた空間には親しみが生まれる。
DNAというより、暮らしや文化を通じて受け継がれてきた感覚なのかもしれない。
もっとも、和室に落ち着きを感じるかどうかは人それぞれである。
日本人でも洋室を好む人はいるし、海外にも日本建築を愛する人は大勢いる。
和式建築の魅力を、国籍や遺伝だけで説明する必要はないのだろう。
江戸の暮らしは、本当に豊かだったのか
江戸の町並みを見ていると、つい昔の暮らしを理想化したくなる。
木の家。
小さな路地。
近所づきあい。
物を大切に使う生活。
現代の都市生活にはない豊かさがあったように思える。
けれど、実際の江戸の暮らしは、決して快適なことばかりではなかったはずだ。
長屋では住まいが狭く、隣人との距離も近い。
夏は暑く、冬は寒い。
火事も多かった。
衛生環境や医療も現代とは大きく違う。
現代人が展示を見て「住んでみたい」と思えるのは、当時の苦労を引き受けずに、その空間の美しさだけを味わえるからでもある。
だから、昔はよかったと単純に言うつもりはない。
むしろ考えたいのは、昔の暮らしのよい部分を、現代の生活に取り入れることはできないだろうかということである。
冷暖房は欲しい。
清潔な水も欲しい。
快適なトイレも欲しい。
インターネットも必要である。
その一方で、木の質感や畳の落ち着き、障子の柔らかな光も欲しい。
昔と今のどちらかを選ぶ必要はない。
よいところを組み合わせればよいのだと思う。
便利さと、心地よさは同じではない
現代の住宅は、便利になった。
気密性や断熱性が高まり、設備も充実している。
家電製品のおかげで、日々の家事に必要な労力も大きく減った。
これは間違いなく進歩である。
けれど、便利さが増えることと、心地よさが増えることは、必ずしも同じではない。
どれだけ設備が整っていても、落ち着かない部屋はある。
逆に、古くて不便でも、長く座っていたくなる空間がある。
それはなぜなのだろう。
光の入り方。
素材の手触り。
天井の高さ。
外とのつながり。
物の多さ。
音。
匂い。
人間は、部屋の広さや設備の性能だけで居心地を判断しているわけではないのだと思う。
深川江戸資料館で惹かれたのも、建築の性能ではなく、空間が持つ雰囲気だった。
自分が住みたい家とは何だろう
展示を見ながら、いつか自分が住みたい家について考えた。
豪華な家でなくてもいい。
広大な土地がなくてもいい。
木の温かみがある。
畳の上で本を読める。
窓から柔らかな光が入る。
静かにお茶を飲める。
そして、気持ちよく考え事ができる。
そんな空間があれば、ずいぶん幸せなのではないだろうか。
自分は普段、仕事でも私生活でも、いろいろなものに興味を持っている。
本を読む。
勉強する。
寺へ行く。
旅に出る。
会社のことを考える。
常に頭の中で何かが動いている。
だからこそ、家では少し静かに過ごしたいのかもしれない。
何かを生み出すための場所であると同時に、何も生み出さなくてよい場所でもあってほしい。
和式建築には、そんな暮らしを想像させる魅力がある。
建築は、人間の生き方を映している
考えてみれば、建築は単に雨風をしのぐためのものではない。
そこに住む人が、どのように暮らすかを形にしたものでもある。
何を大切にするか。
人とどのくらいの距離で暮らすか。
物をどのくらい持つか。
自然とどう付き合うか。
どこで食事をし、どこで眠るか。
家のつくりには、その時代の生活や価値観が表れている。
だから、昔の建築を見ることは、昔の人々の生き方を知ることでもある。
そして同時に、今の自分がどんな暮らしをしたいのかを考える機会にもなる。
深川江戸資料館で江戸の町並みを見ながら、自分が考えていたのは、案外そんなことだったのかもしれない。
昔に戻りたいのではなく、残したいものがある
深川江戸資料館を訪れて、江戸時代に生まれたかったと思ったわけではない。
現代の便利さは手放したくない。
けれど、昔の人たちがつくり上げた空間には、今でも学べるものがあると思った。
木を使うこと。
光を柔らかく取り入れること。
限られた空間を工夫して使うこと。
物を増やしすぎないこと。
そして、住まいを単なる設備の集合ではなく、暮らしの場として考えること。
古いものを何でも守ればよいわけではない。
新しいものを何でも取り入れればよいわけでもない。
大切なのは、何を残し、何を変えるかを自分で考えることなのだろう。
ふむ。
昔の家が懐かしく感じられるのは、必ずしも昔に戻りたいからではないのかもしれんのう。
今の暮らしの中で、少し忘れていた心地よさを見つけたからなのかもしれん。
住まいとは、毎日帰る場所である。
だからこそ、便利なだけではなく、自分が自然体でいられる空間にしたい。
深川江戸資料館の小さな町並みを眺めながら、そんなことを考えた一日だった。
さて。
あなたにとって、「ここにいると落ち着く」と感じる空間は、どんな場所じゃろうか。












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