2025年11月12日から13日にかけて、福井を旅した。
柴田神社、養浩館庭園、福井県庁、グリフィス記念館、八幡山展望台、松葉湯、愛宕坂、足羽神社、毛谷黒龍神社、不動寺。
そして、松旭斎天一の石碑も訪ねた。
福井の歴史や文化に触れながら街を歩き、最後に向かったのが永平寺だった。

永平寺を歩いていて、強く感じたことがある。
「ずいぶん、徹底しているのう」
坐禅だけではない。
食べること。顔を洗うこと。歩くこと。掃除すること。器を扱うこと。眠ること。
修行僧の日常生活そのものに、細かな作法がある。
最初は、こんなことを思った。
道元という人は、相当な完璧主義者だったのではないか。
もっと俗な言い方をすれば、
「そこまで決めるのか」
と思ったのじゃ。
けれど、永平寺を歩き、道元について考えているうちに、少し違う見方をするようになった。
道元が求めていたのは、複雑な生活ではない。
むしろ、余計なものを削ぎ落とした、とてもシンプルな生活だったのではないか。
道元という人
道元は鎌倉時代に生きた禅僧で、曹洞宗の開祖として知られている。
若くして仏門に入り、やがて宋へ渡った。そこで禅を学び、日本へ帰国する。
そして1244年、現在の福井県に大佛寺を開き、のちに永平寺と改称した。
道元というと「只管打坐」という言葉がよく知られている。
ただひたすら坐る。
悟りを得るための手段として坐禅をするというより、坐禅をすることそのものを大切にする。
けれど、道元が重視したのは坐禅だけではなかった。
食事を作ること。食べること。顔を洗うこと。衣を着ること。掃除をすること。
修行僧たちの日常生活そのものを、修行として捉えていた。
つまり、
「坐禅をしている時間だけが修行」
ではないのじゃ。
生活そのものが修行になる。
この考え方が、永平寺という場所を歩いていると、少しずつ見えてくる。
応量器(おうりょうき)
曹洞宗の食事は応量器(おうりょうき)という食器を使って行う。

応量器とは、禅宗の修行僧が食事の際に使用する器のことである。
複数の器を重ねて収納し、食事のときには決められた作法に従って広げ、食事が終われば洗い、拭き、再び元の形に戻す。

単に「ご飯を食べるための茶碗」ではない。
器の置き方。扱い方。食べ方。片付け方。
そこにも型がある。
初めて知ったときは、
「食事くらい自由に食べてもよいではないか」
とも思った。
器の扱い方まで決める必要があるのじゃろうか。
現代的な感覚から見れば、少し窮屈にも感じる。
だから最初は、道元という人はかなり細かい人だったのではないか、完璧主義的なところもあったのではないか、そんな印象を持った。
もちろん、800年近く前の人物を現代の心理学的な言葉で「完璧主義者だった」と断定することはできない。
けれど、道元が日常の細部を非常に重視していたことは確かじゃろう。
そして、そこで一つ疑問が生まれた。
なぜ、そこまで細かくする必要があったのじゃろう。
生活を複雑にしたかったわけではない
しばらく考えていると、むしろ逆なのではないかと思えてきた。
道元は生活を複雑にしたかったのではない。
生活をシンプルにしたかったのではないか。
食べるときは、食べる。
洗うときは、洗う。
掃除するときは、掃除する。
歩くときは、歩く。
坐るときは、坐る。
そこに余計なものを持ち込まない。
現代の自分たちは、ご飯を食べながらスマートフォンを見る。仕事をしながら通知を見る。歩きながら音楽を聴く。テレビを見ながらSNSを見る。
一つのことをしているようで、頭の中では別のことをいくつも考えている。
道元の世界は、その反対に見える。
目の前にある一つのことを、きちんとやる。
食べるという行為さえ、雑に扱わない。
そう考えると、細かな作法は生活を複雑にするための規則ではなく、
「今やっていることに集中するための型」
だったのかもしれん。
「型」があるから、迷わなくてよい
普通は、規則が少ないほど自由だと思う。
好きな時間に起きる。好きなものを食べる。好きな順番で仕事をする。好きなように生活する。
確かに、それは自由じゃ。
けれど、自由にはもう一つの側面がある。
毎回、自分で決めなければならない。
今日は何時に起きよう。
何を食べよう。
どの仕事から始めよう。
いつ勉強しよう。
運動するか、しないか。
本を読むか、動画を見るか。
一つ一つは小さな判断じゃ。
けれど、それが一日に何十回、何百回と積み重なる。
現代人は自由になったぶん、
「何をするかを決め続ける生活」
をしているのかもしれない。
一方、永平寺の生活には型がある。
いつ何をするのか。どう食べるのか。どう掃除するのか。どう坐るのか。
あらかじめ決まっている。
一見すると不自由じゃ。
けれど、決まっているからこそ、迷わなくてもよい。
何をするかに頭を使うのではなく、目の前のことをどう行うかに集中できる。
そう考えると、
「型」と「自由」は必ずしも反対ではないのかもしれん。
型があることで生まれる自由もある。
現代の生活は、少し増えすぎている
永平寺を歩きながら、自分の生活についても考えた。
現代では、何かを良くしようと思うと、つい何かを「足そう」とする。
新しい仕事を始める。
新しい資格を取る。
新しい本を読む。
新しいアプリを入れる。
新しいサービスを使う。
新しい趣味を始める。
新しい場所へ行く。
新しい目標を作る。
もちろん、新しいことに挑戦するのは面白い。
知らない世界へ出ていくことで、人生が広がることもある。
自分も新しいことが好きじゃ。
だからこそ、気がつけば、やりたいことが増えている。
仕事もしたい。
勉強もしたい。
本も読みたい。
旅にも出たい。
身体も鍛えたい。
新しいものも作りたい。
どれも悪いことではない。
けれど、全部を持とうとすると、生活はどんどん複雑になる。
ここで、永平寺の世界はまったく違う方向を向いているように見えた。
増やすのではない。
削る。
「何をするか」より「何をしないか」
人生を良くする方法を考えるとき、
「これから何をするか」
ばかり考えていたように思う。
けれど、
「これから何をしないか」
を決めることも、同じくらい大切なのかもしれない。
やらなくてもよい仕事。
読まなくてもよい情報。
見なくてもよいSNS。
買わなくてもよいもの。
付き合わなくてもよい習慣。
追いかけなくてもよい目標。
そういうものを一つずつ減らしていく。
すると、本当に大切なものに使える時間が増える。
これは単なる断捨離とは少し違う。
物を捨てるだけではなく、
自分の注意をどこに向けるのかを決めることじゃ。
道元が実際に現代人へそう助言したわけではない。
けれど、永平寺の生活を見ていると、そんなことを考えさせられる。
「ちゃんと食べる」ということ
応量器のことを考えていて、もう一つ面白いと思った。
毎日必ずすることほど、雑になりやすい。
食事。
歯磨き。
入浴。
掃除。
睡眠。
歩くこと。
人と挨拶すること。
どれも特別なイベントではない。
だから、つい適当に済ませてしまう。
けれど、人生の大部分を占めているのは、実はそういう時間じゃ。
旅行へ行く日は年間何日あるじゃろう。
大きな仕事を成し遂げる日は何日あるじゃろう。
人生を変えるような出来事は、それほど頻繁には起こらない。
一方で、食事は毎日する。
眠るのも毎日。
顔を洗うのも毎日。
歩くのも毎日。
人生の大半は、
何でもない日の、何でもない行動でできている。
それなら、特別な日だけを充実させようとするより、
普通の日を丁寧に生きる方が、人生全体としては豊かになるのかもしれない。
完璧にするのではなく、丁寧にする
永平寺へ行ったとき、
最初は道元に対して「完璧主義者だったのではないか」という印象を持った。
けれど、考えているうちに、少し違う気がしてきた。
完璧にすることと、丁寧にすることは違う。
完璧主義は、
失敗してはいけない。
間違えてはいけない。
もっと良くしなければならない。
という方向へ向かいやすい。
一方、
丁寧に生きるというのは、目の前にあることを疎かにしないことなのかもしれない。
食べるなら、ちゃんと食べる。
掃除するなら、ちゃんと掃除する。
仕事をするなら、ちゃんと仕事をする。
休むなら、ちゃんと休む。
一つ一つは、とても地味じゃ。
けれど、そういう小さな行為を積み重ねたものが、
結局は一日になり、
一年になり、
人生になる。
シンプルに生きるということ
永平寺という場所には、華やかな観光地とは違う空気がある。

もちろん立派な伽藍があり、多くの参拝者も訪れる。
けれど、その奥にある思想を眺めてみると、意外なほど単純なところへ戻っていくように感じた。
目の前のことをする。
余計なものを持ち込まない。
日常を疎かにしない。
同じことを繰り返す。
そういう生活である。
何か大きなことを成し遂げるためには、もっと特別なことをしなければならないと思いがちじゃ。
けれど、
毎日の小さなことを整える。
同じ時間に起きる。
食事を整える。
身体を整える。
仕事をする。
掃除をする。
本を読む。
眠る。
そういう繰り返しの方が、案外、人間を遠くまで運んでくれるのかもしれない。
足す前に、一つ減らしてみる
福井から帰ってきて、永平寺で感じたことを思い返した。

自分は、何かを良くしようとすると、すぐに新しいものを足そうとする。
新しい目標。
新しい勉強。
新しい仕事。
新しい計画。
それ自体は悪くない。
進み続けるためには、新しいものも必要じゃ。
けれど、
新しいものを一つ増やす前に、
古いものを一つ減らしてみてもよい。
そして、
残ったものを丁寧にやる。
道元が求めていたものが、本当に「シンプルさ」だったのか。
八百年近くあとの自分に、その心の内までは分からない。
じゃが、
永平寺という場所に立ち、
応量器をはじめとする禅の生活文化に触れて、
自分はそう感じた。
人生は、
何かを増やせば増やすほど豊かになるとは限らない。
むしろ、
余計なものを減らしたときに初めて、
本当に大切なものが見えてくることもあるのじゃろう。
ふむ。
「もっと何かを」
と思ったときほど、
「もう十分ではないか」
と考えてみる。
それも一つの生き方なのかもしれんのう。
さて。
あなたの毎日から、一つだけ余計なものを減らすとしたら。
何を減らしてみるじゃろうか。










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