2026年1月、上野・湯島周辺を歩いた。
旧岩崎邸庭園、東京国立博物館、三菱経済研究所を巡り、最後は寿湯へ。
なかでも強く印象に残ったのが、岩崎家と三菱の歴史だった。
旧岩崎邸の立派な洋館を歩き、さらに三菱経済研究所まで訪ねていると、現在まで続く巨大企業グループの存在が、急に現実味を帯びてくる。
三菱商事、三菱重工業、三菱UFJ銀行、三菱地所。
いまでは日本を代表する企業の名前に「三菱」が並んでいる。
けれど、その始まりを遡っていくと、一人の人物に行き着く。
岩崎弥太郎である。
弥太郎について調べていると、とにかく強烈な人物だったことが伝わってくる。
野心。
行動力。
反骨心。
そして、自分が経営するという強烈な意思。
旧岩崎邸を歩きながら思った。
これほど大きなものをつくるには、やはりこれくらいのエネルギーが必要なのじゃろうか。
旧岩崎邸は、弥太郎本人の邸宅ではない
まず一つ、間違えやすいところがある。
現在残っている旧岩崎邸の洋館は、岩崎弥太郎が建てた自宅ではない。

1896年、弥太郎の長男で三菱第3代社長となった岩崎久彌の本邸として建てられたものだ。
設計したのは、鹿鳴館などを手掛けた英国人建築家ジョサイア・コンドル。
当時は約1万5,000坪の敷地に20棟もの建物が並んでいたという。現在残っているのは洋館、撞球室、和館大広間の3棟である。 東京公園
つまり、目の前にある建物そのものは弥太郎の時代より少し後のものなのじゃ。
けれど、この邸宅を可能にした岩崎家と三菱の土台をつくった人物こそ、弥太郎だった。
では、三菱はどのように始まったのじゃろう。
三菱は、最初から巨大企業だったわけではない
三菱の原点は海運だった。
1870年、土佐藩の海運事業を引き継ぐ形で九十九商会が発足する。
その後、三川商会を経て、1873年に三菱商会となり、岩崎弥太郎が社主となった。
翌1874年には本拠を東京へ移し、1875年には郵便汽船三菱会社となる。
弥太郎率いる三菱は海運業を急速に拡大していった。1874年の台湾出兵や1877年の西南戦争では政府軍の輸送を担い、事業基盤を強固にしていく。
さらに海運だけではない。
1873年には岡山県の吉岡鉱山を取得するなど、鉱山をはじめとした別の事業にも進出していった。 三菱自動車
こうして見ると、現在の巨大な三菱グループが突然生まれたわけではないことが分かる。
一つの海運事業から始まり、
機会をつかみ、
利益を次の事業へ投入し、
さらに事業を広げていく。
その繰り返しだった。
そして、その中心にいたのが弥太郎だった。
とにかく「自分でやる」人だった
弥太郎について調べていて面白かったのが、渋沢栄一との違いだった。
同じ明治を代表する実業家でも、二人の経営思想はかなり違う。
渋沢栄一は「合本主義」を重視した。
これは単純に「みんな仲良く経営する」という意味ではない。
人材や資本を広く集め、事業の目的を共有しながら、社会に必要な事業を多くの人の力で実現していこうという考え方だった。 渋沢財団
一方、弥太郎は違った。
渋沢自身が後年、
「岩崎は専権邁進の人」
と表現している。
渋沢によれば、弥太郎は多人数の共同出資による経営に否定的で、多くの人間が集まれば議論ばかり増えて仕事が進まないと考えていた。
事業は自分でどんどん進める。
その代わり、有能な人材は積極的に自分のもとへ集める。
そんな経営だったという。 渋沢栄一記念財団
現代風にかなり単純化して言えば、
渋沢栄一は「みんなの力を集めて会社をつくる」。
岩崎弥太郎は「俺が決める。ついてこい」。
そんな対照にも見える。
渋沢栄一と岩崎弥太郎
この二人には、有名な議論がある。
弥太郎は渋沢に、自分と二人で組めば日本の実業界で何でもできる、と持ちかけた。
しかし、そこで二人の経営観がぶつかった。
渋沢は合本による経営を主張する。
弥太郎は、もっと専制的に経営する必要があると主張する。
結局、二人が一緒に事業をすることはなかった。
ただし、単純に「犬猿の仲だった」としてしまうのも正確ではない。
渋沢は後に、弥太郎とは考え方が違ったのであって、険悪になったというほどではなかった、という趣旨の説明もしている。 渋沢財団
ここが面白い。
同じ時代を生き、
同じように日本の近代経済をつくった二人が、
「会社とは何か」
について、まったく違う答えを持っていた。
どちらが正しいのじゃろう
ここまで調べると、一つの疑問が出てくる。
渋沢型と岩崎型。
どちらの経営が正しいのじゃろう。
おそらく、そんなに単純ではない。
多くの人の資本と知恵を集めることで、一人ではできない大きな仕事ができる。
これは渋沢型の強さじゃろう。
一方で、会社を始めたばかりの時期には、
「これをやる」
と誰かが決めなければ何も始まらないこともある。
全員の意見を聞き、
全員が納得するまで話し合い、
全員の合意を取ってから動いていたら、
機会そのものが消えてしまうこともある。
そういう局面では、
「俺が責任を取るから、やる」
という人間が必要になる。
弥太郎には、その力が極端なほどあったのかもしれない。
反骨心は、事業のエネルギーになる
弥太郎を見ていて、自分が特に惹かれたのは、
経営手法そのものより、そのエネルギーだった。
最初から巨大な資産を持った財閥の当主として生まれ、完成された三菱を受け継いだ人物ではない。
幕末から明治という社会そのものが大きく変わる時代に、
商機を見つけ、
人を集め、
船を動かし、
政府とも渡り合い、
競争相手とも戦い、
事業を拡大していった。
もちろん、その手法のすべてを現代の経営者が真似すればよいわけではない。
政府との関係や海運市場での支配力をめぐって、弥太郎や三菱は当時から批判も受けた。やがて三菱に対抗する共同運輸会社が設立され、両社は激しい競争へ突入する。 渋沢財団
弥太郎は決して、誰からも愛された理想的な経営者ではなかった。
むしろ、強烈だったからこそ、敵もつくった。
それでも、
「自分はここまでやるのだ」
という力は凄まじい。
会社をつくるということは、きれいな事業計画書を書くだけではない。
うまくいかない。
批判される。
競争相手が現れる。
金が足りない。
思った通りに人が動かない。
それでも前へ進む。
事業の初期には、理屈だけでは説明できないくらいのエネルギーが必要なのかもしれない。
弥太郎が死んでも、三菱は終わらなかった
そして、三菱の歴史で面白いのはここからである。
弥太郎は1885年に亡くなった。
まだ50歳だった。
けれど、三菱は終わらなかった。
弟の岩崎弥之助が第2代社長となる。
その後、弥太郎の長男・久彌が第3代社長となり、さらに弥之助の長男・小彌太が第4代社長となった。
弥太郎一人の強烈なリーダーシップから始まった三菱は、次の世代へ受け継がれていった。 三菱自動車
今回訪れた旧岩崎邸も、その歴史の途中にある。
建てたのは第3代社長の久彌だった。
そして三菱経済研究所にも、その歴史は続いている。

三菱経済研究所のルーツは、1922年に三菱合資会社へ設置された資料課にある。現在の場所も岩崎家ゆかりの土地である。 三菱自動車
一人の男が始めた商売が、
次の世代へ渡り、
さらに次の世代へ渡り、
研究機関まで生み、
150年以上たった現在にも「三菱」という名前が残っている。
旧岩崎邸から三菱経済研究所まで歩いてみると、
その時間の長さを少しだけ実感できた。
創業者に必要なのは、民主主義だけではないのかもしれない
会社経営では、
人の意見を聞くことが大切だと言われる。
もちろん、その通りじゃ。
社員の意見を聞く。
顧客の声を聞く。
専門家の話を聞く。
独善的にならない。
どれも大切である。
けれど、岩崎弥太郎の人生を見ていると、
それだけでも会社はつくれないのではないかと思えてくる。
最後には誰かが、
「これをやる」
と決めなければならない。
誰も正解を知らないときに決める。
失敗するかもしれなくても決める。
そして、決めた結果について責任を取る。
特に何もないところから何かをつくる創業期には、
そういう強さが必要なのかもしれない。
ふむ。
そう考えると、
渋沢と弥太郎は正反対のようでいて、
現代の経営者には両方が必要なのかもしれんのう。
人の力を集める渋沢。
自分で決断する弥太郎。
「みんなで考える」と「自分が決める」。
経営とは、この二つを行ったり来たりすることなのかもしれない。
旧岩崎邸を出て
旧岩崎邸を歩き、
三菱経済研究所を訪ね、
弥太郎と三菱の歴史を調べた。
そのあと寿湯へ行った。
明治の実業家について考えたあと、
最後は銭湯で湯につかる。
ずいぶん振れ幅のある一日じゃ。
けれど、湯につかりながら考えてみると、
弥太郎も最初から「三菱グループ」をつくろうとしていたわけではない。
目の前の仕事を取り、
競争し、
事業を広げ、
次の一手を打った。
その積み重ねが、
本人の人生を超えて残った。
現在の旧岩崎邸を見れば、その結果はあまりにも巨大に見える。
けれど、
どんな巨大な企業にも最初の日がある。
最初の商売がある。
最初の決断がある。
そして、
「自分はこれをやる」
と言った一人の人間がいる。
何かを始めようとしているとき、
まだ小さいことを恥じる必要はないのかもしれない。
問題は、
いま何を持っているかではなく、
どこまでやるつもりなのか。
岩崎弥太郎の人生を眺めていると、
そんなことを考えさせられる。
さて。
もし誰も正解を教えてくれないとしても、
それでもあなたが「自分で決めて進む」と言えるものは、
何じゃろうか。










-485x273.jpg)







コメントを残す