2026年9月23日、東京駅周辺を歩いた。
最初に向かったのは皇居東御苑。

現在の皇居東御苑は、かつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部にあたる。

現在は約21万平方メートルの皇居附属庭園として整備され、1968年から一般に公開されている。宮内庁

いま歩いてみると、きれいに整備された広い庭園である。
芝生が広がり、木々があり、観光客が歩いている。

東京の中心にありながら、不思議なくらい空が広い。

けれど、ここはもともと日本の政治の中心だった場所でもある。
江戸城には徳川将軍が暮らし、大名たちが登城し、幕府の政治が行われた。
江戸城の天守は1657年の明暦の大火で焼失し、その後再建されなかった。

いま天守台に立っても、その上に巨大な天守はない。


あるのは石垣と空である。
そこが面白かった。
かつては、この場所を中心に巨大な政治機構が動いていた。
将軍がいた。
大名がいた。
役人がいた。
ここで出世した人もいれば、失脚した人もいたじゃろう。
権力を求めた人もいた。
自分の家を残そうと必死になった人もいた。
けれど、数百年が過ぎると、巨大な城でさえ姿を変える。
人間はもっと早い。
将軍も、大名も、役人も、もう誰もいない。
残っているのは石垣や濠、門、庭園、そして記録である。
歴史のある場所を歩くと、ときどき時間の尺度がおかしくなる。
自分にとって十年はかなり長い。
けれど、江戸城から見れば十年などほんの一瞬なのじゃろう。

徳川家康が江戸に入ったのは1590年。
1603年に江戸幕府を開き、その後、江戸城は幕府の中枢として整備されていった。
それから二百数十年。
徳川幕府は続いた。
現代の人間からすると、二百年以上続く組織というのは途方もなく長い。
会社でも、店でも、百年続くだけですごい。
二百年以上となれば、自分が始めたものの結末を創業者自身が見ることなどできない。
それでも、終わりは来た。
1867年、徳川慶喜が大政奉還を行い、翌1868年には江戸城が明治政府へ引き渡された。
あれほど巨大だった徳川の時代にも、最後の日があった。
皇居東御苑を歩きながら、
「続いているものを見ると、人間はそれがずっと続くような気がしてしまうのだな」
と思った。
会社もそうかもしれない。
仕事もそうかもしれない。
人間関係もそうかもしれない。
良い状態も、悪い状態もそうじゃ。
いま目の前にあるものが、そのままずっと続くとは限らない。
逆に言えば、
いまうまくいっていないことも、永遠にそのままとは限らない。
歴史を見る面白さは、
「変わらないように見えるものも、長い時間で見れば変わっていく」
ということを実感できるところにあるのかもしれない。
## 何もないことが、歴史を想像させる
江戸城本丸跡で印象的なのは、
むしろ「ない」ことだった。
天守がない。
御殿もない。
かつて存在した巨大な建物の多くが、現在は残っていない。
だからこそ、
「ここに何があったのだろう」
と想像する。
もし江戸城のすべてが完全な状態で残っていたら、
自分は建物の豪華さばかり見ていたかもしれない。
何もない広場を見ることで、
逆にそこにいた人間について考える。
何百年も前、この場所を歩いていた人がいた。
仕事をしていた人がいた。
悩んでいた人がいた。
自分の将来を心配していた人もいたじゃろう。
その人たちにとっては、
江戸城こそが「現在」だった。
自分たちが生きている2026年の東京も、
いつか同じように「昔」になる。
そう考えると、
歴史は急に遠い世界の話ではなくなる。

江戸城から、AIの技術書を買いに行く
皇居東御苑を出て、丸の内へ向かった。
そして丸善丸の内本店で、AIエンジニアリングの技術本を買った。
数百年前の江戸城を歩いた直後に、
人工知能についての本を買う。
考えてみれば、ずいぶん変な移動である。
江戸時代の人間には、現在の東京など想像できなかったじゃろう。
蒸気機関どころか、電車も、自動車も、インターネットもない。
その江戸城跡から少し歩けば、
巨大な東京駅があり、
高層ビルが並び、
本屋には生成AIについて書かれた本が並んでいる。
数百年という時間は、
人間の世界をここまで変えてしまう。
それなら、
これから百年、二百年後の人間から見れば、
いま最先端だと思っているAIも、
歴史の一ページになっているのじゃろう。
そんなことを考えながら本を買った。
過去を知るために江戸城を歩き、
未来を知りたくてAIの本を買う。
そして、その次に向かった東京ステーションギャラリーで待っていたのは、
さらに昔から語り継がれてきた物語だった。
『水滸伝』である。
東京ステーションギャラリー 水滸伝

目的は「水滸伝」展だった。
この展覧会が、思いがけず自分の「学ぶ」ということへの考え方を少し変えることになった。


いつか『水滸伝』を読もうと思っていた
『水滸伝』という名前は、もちろん以前から知っていた。
中国四大奇書の一つ。
宋江をはじめとする108人の豪傑が梁山泊に集まる物語。
中国文学や中国史に興味を持つなら、一度くらいはちゃんと読んでおきたい。
そう思っていた。
ただ、問題がある。
長い。
登場人物も多い。
「いつか読もう」
と思いながら、その「いつか」がなかなか来なかった。
本好きには、こういう本が何冊かあるのではないじゃろうか。
『いつか読みたい本』。
読んでいないのに、なぜかずっと気になっている。
本屋で見かけると手に取る。
解説を読む。
また棚に戻す。
そして数年が過ぎる。
自分にとって『水滸伝』は、そんな作品の一つだった。
展覧会から物語へ入る
東京ステーションギャラリーでは、2026年9月19日から11月8日まで「水滸伝」展が開催されている。
展覧会では、北宋時代の史実を背景に成立した『水滸伝』の物語だけでなく、中国美術、日本の浮世絵、版本、漫画などを通して、『水滸伝』が長い時間の中でどのように表現されてきたのかを紹介している。イー・ジェイ・アール・シー・エフ
面白かったのは、
「小説を読んでから展覧会へ行く」
ではなく、
「展覧会へ行ったことで小説に興味を持った」
という順番になったことだった。
本来なら原典を読んで、背景を勉強して、それから美術を見る。
そんな順番の方が「正しい勉強」のような気もする。
けれど、自分の場合は逆だった。
絵を見る。
人物を知る。
物語の断片を知る。
「これはどういう人物なのじゃろう」
と思う。
そこから、物語そのものを知りたくなった。
知識というものは、必ずしも教科書の第一章から順番に入らなくてもよいのかもしれない。
それでも、本を読む気にはならなかった
そして、もう一つ変化があった。
展覧会を見終わったあと、
「よし、『水滸伝』を読もう」
とはならなかった。
代わりに、
「ドラマを見よう」
と思った。
以前の自分なら、少し抵抗があったかもしれない。
古典を知るなら原典を読む。
歴史を知るなら本を読む。
まず活字で学ぶ。
それが正統な方法のように思える。
もちろん原典を読む価値は大きい。
ドラマには脚色もある。
省略もある。
原作とは違う部分もある。
だから、
「ドラマを見れば原典を読んだことになる」
わけではない。
それでも、自分はまずドラマを見ることにした。
なぜなら、
十年以上「いつか読もう」と思って読まなかった本を、
これからも「いつか読む本」のままにしておくより、
今日からドラマを一本見る方が、
水滸伝の世界には近づけるからじゃ。
学びには「入口」があっていい
考えてみれば、自分たちは「学ぶ方法」に少しこだわりすぎることがある。
歴史なら本。
文学なら原典。
語学なら教科書。
勉強なら机に座る。
そんなイメージがある。
けれど、人間が何かを好きになる入口はもっと自由でよいのではないか。
映画から歴史に興味を持つ。
漫画から古典に興味を持つ。
旅行から仏教に興味を持つ。
博物館から考古学に興味を持つ。
ゲームから戦国時代を調べ始める。
ドラマから中国文学へ入る。
どこから入ってもよい。
大切なのは、
「入口に立ったあと、もう少し先へ行ってみたい」
と思えることなのかもしれない。
丸善でAIの本を買った日だった
そう考えると、この日の行動は少し面白い。
東京駅へ行く前、丸善でAIの本を買っていた。
AIについてもっと深く学びたいと思っているからだ。
こちらは本で勉強する。
一方、『水滸伝』は本ではなくドラマから入ることにした。
一見すると矛盾している。
でも、別に同じ方法で学ぶ必要はない。
技術書なら、本を読んで手を動かすのが自分には合っているかもしれない。
百八人もの人物が登場する物語なら、まず映像で人物の顔や関係をつかんだ方が入りやすいかもしれない。
目的は、
「本を読むこと」
ではない。
知ること。
理解すること。
そして、面白いと思ったら、さらに深く入っていくこと。
ドラマを見て水滸伝が好きになれば、そのあと原典を読むかもしれない。
中国史を調べるかもしれない。
宋代について勉強するかもしれない。
歌川国芳の水滸伝ものをもっと見たくなるかもしれない。
最初の入口がどこだったかは、それほど重要ではないのかもしれん。
「いつか」は、意外と長い
今回、もう一つ考えたことがある。
「いつか」という言葉についてじゃ。
いつか読みたい。
いつか行きたい。
いつか勉強したい。
いつか始めたい。
便利な言葉である。
何かを諦めなくてもよい代わりに、
今日やらなくてもよくなる。
『水滸伝』についても、
自分はずっと「いつか読もう」と思っていた。
しかし、読まなかった。
それなら方法を変えればよい。
本が重いならドラマを見る。
一冊読むのが難しいなら解説から入る。
一人では続かないなら誰かとやる。
一時間取れないなら十分だけやる。
「正しい方法では続かない」
というとき、
自分の意志が弱いのだと思ってしまうことがある。
けれど、
方法が自分に合っていないだけかもしれない。
入口を変える。
それだけで、十年間動かなかったものが動き始めることもある。
そして、十年以上通っているラーメン屋へ
この日の最後は、十年以上通っているラーメン屋へ行った。
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一、二か月に一度くらい。
ずっと通っている、自分にとっては秘密にしておきたい店である。
考えてみれば、
この日は「新しいもの」と「ずっと変わらないもの」が妙に入り交じっていた。
皇居東御苑では、江戸城の跡を歩いた。
丸善では、これからの技術であるAIの本を買った。
東京ステーションギャラリーでは、何百年も読み継がれてきた『水滸伝』に出会った。
そして最後は、
十年以上通っている店で、いつものラーメンを食べた。
新しいことを学ぶ。
昔のものを知る。
そして、自分の昔からの習慣へ戻る。
人生というものは、
全部を新しくする必要も、
全部を昔のままにする必要もないのじゃろう。
新しいものを一つ取り入れながら、
好きなものは残しておく。
そのくらいが、案外ちょうどよい。
人生は、寄り道から広がっていく
朝から、
「今日は人生について考えよう」
と思って出かけたわけではない。
皇居を歩き、
本屋へ行き、
展覧会を見る。
ラーメンを食べて帰る。
ただそれだけの一日だった。
けれど、
展覧会で『水滸伝』に出会ったことで、
十年以上「いつか」の棚に置いていたものが、少し動き始めた。
知識というものは、
一直線に増えていくわけではないのかもしれない。
本屋で買った一冊から別の分野へ行く。
旅行で見たものから歴史を調べる。
展覧会から小説へ行く。
小説からドラマへ行く。
ドラマからまた本へ戻る。
そうやって、
点と点が少しずつつながっていく。
ふむ。
それなら、
最初から立派な勉強をしようとしなくてもよいのかもしれんのう。
「ちょっと面白そうじゃ」
それくらいから始めてみる。
そして、面白ければもう一歩だけ進んでみる。
十年間「いつかやろう」と思い続けるより、
今日、入口を一つくぐってみる。
その方が、
知らなかった世界は少しだけ近くなる。
さて。
あなたの中にも、
ずっと「いつか」と思ったままになっているものはないじゃろうか。
本から入れないのなら、
別の入口から入ってみてもよいのかもしれんぞ。






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