2026年9月25日、再び成田山深川不動堂へ行った。
最近、定期的に足を運ぶようになっている。
この日も本堂に座り、護摩の火を眺めた。
太鼓が鳴る。
読経が響く。
護摩壇から炎が立ち上がる。
その炎をぼんやり眺めているうちに、また涙が出てきた。
悲しいわけではない。
何か特別につらいことを思い出したわけでもない。
それでも、護摩に参列していると、ときどき自然に涙が流れる。
なぜなのか、自分でもよく分からない。
ただ最近、この時間が自分にとって、一週間を終えるための大切な時間になってきた。
ただ、火を見る
護摩というと、願い事をするものという印象が強いかもしれない。
もちろん祈願の場である。
深川不動堂は成田山新勝寺の東京別院で、現在も毎日護摩が修されている。公式には、護摩は古代インドの「ホーマ」を起源とする真言密教の修法で、護摩壇の炎を不動明王の智慧の炎として、煩悩を清らかな願いへと高めるものと説明されている。深川不動尊
けれど、自分にとって最近の護摩は、それだけではなくなってきた。
ただ火を見る。
ぼーっと見る。
炎が上がり、形を変え、消えていく。
また新しい炎が上がる。
それを眺めながら、読経と太鼓の音を聞いている。
普段の生活では、こういう時間がほとんどない。
仕事をする。
スマートフォンを見る。
本を読む。
勉強する。
何かを調べる。
次に何をするか考える。
現代の生活では、起きているあいだ、ほとんど絶えず何かを頭に入れている。
けれど護摩の前では、しばらく何も入れなくてよい。
ただ炎を見る。
それだけの時間が、思っている以上に心地よい。
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なぜ涙が出るのかは、分からない
護摩に参列していると、ときどき涙が出る。
以前もそうだった。
今回もそうだった。
理由を説明しようと思えば、いくらでも考えられる。
太鼓の音なのかもしれない。
読経なのかもしれない。
炎なのかもしれない。
一週間の疲れなのかもしれない。
安心したからなのかもしれない。
けれど、無理に理由を決めなくてもよいと思っている。
人間の気持ちは、すべて言葉で説明できるものでもないじゃろう。
「ああ、自分は今、涙が出るのだな」
そのくらいでよい。
そして不思議なことに、泣いたあとには少し軽くなる。
それなら、それで十分である。
一週間を振り返る場所になった
最近、深川不動堂へ定期的に行くことで、もう一つ変化が出てきた。
ここへ来ることが、一週間の区切りになってきた。
護摩の火を見ながら、
「今週はどうだったかな」
と考える。
ちゃんと仕事をしたか。
やろうと思っていたことはできたか。
無駄に時間を使いすぎなかったか。
人に対して嫌な態度を取らなかったか。
逆に、できたことは何だったか。
そんなことが頭に浮かぶ。
反省することもある。
「これは良くなかったのう」
と思う。
でも、そこで一週間を終わらせる。
そして、
「来週はもう少し頑張るか」
と思う。
自分にとっては、それが大きい。
人には「区切り」が必要なのかもしれない
考えてみれば、一週間というものに本当の境界線があるわけではない。
金曜日から土曜日になっても、世界がいったん停止して再起動するわけではない。
時間はずっと続いている。
だからこそ、自分で区切らなければ、
先週の疲れも、
昨日の失敗も、
来週の心配も、
全部つながったままになる。
それでは少し疲れる。
人間が昔からさまざまな儀式や習慣を作ってきた背景にも、時間に区切りを与えるという働きがあったのかもしれない。
朝と夜を区切る。
一年を区切る。
人生の節目を区切る。
始まりと終わりをつくる。
区切ることで、
「ここまで」
と言える。
そして、
「ここからまた始める」
と言える。
自分にとって深川不動堂の護摩は、少しずつそういう時間になっている。
リセットするとは、忘れることではない
「気持ちをリセットする」という言葉をよく使う。
でも、嫌なことを全部忘れるという意味ではないと思う。
今週失敗したことは、失敗したこととして残っている。
できなかったことも消えない。
反省すべきこともある。
それを一度眺める。
必要なら反省する。
次はどうするか考える。
そして、いったん置く。
それが自分にとってのリセットなのかもしれない。
反省と自己否定は違う。
失敗を振り返ることと、
失敗した自分をいつまでも責め続けることも違う。
護摩の炎を見ていると、
「まあ、来週もう一回やればいいか」
と思えてくる。
それくらいが、ちょうどよい。
そのあと、富岡八幡宮へ
深川不動堂を出たあと、すぐ近くの富岡八幡宮にも立ち寄った。
深川を歩けば、この二つは隣り合うような距離にある。
深川不動堂で護摩の火を見て、
そのあと八幡宮へ参る。
けれど富岡八幡宮を歩いていると、どうしても思い出す出来事がある。
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2017年に起きた、当時の宮司が実弟らに襲われ死亡した事件である。
非常に痛ましい事件だった。
神社という場所で、しかも神職に関わる家族の間で、なぜこのようなことが起きるのだろう。
そう考えてしまう。
もちろん、一つの事件だけを取り上げて、富岡八幡宮という神社そのものや、神職一般について語ることはできない。
長い歴史を持つ場所と、そこで起きた一つの事件は分けて考えなければならない。
それでも、この日自分が考えたことがある。
神社にいる人も、
寺にいる人も、
結局は人間なのだ。
聖なる場所にいるから、聖人になるわけではない
宗教に関わる人を見ると、私たちは無意識のうちに高い倫理性を期待することがある。
僧侶なのだから。
神職なのだから。
宗教を学んでいるのだから。
きっと立派な人なのだろう、と。
けれど、衣を着ても人間は人間である。
神社に仕えても人間は人間である。
寺で修行しても人間は人間である。
怒ることもある。
嫉妬することもある。
欲もある。
人を嫌うこともある。
判断を誤ることもある。
宗教に関わった瞬間、人間の弱さが消えてなくなるわけではない。
むしろ宗教が長い歴史の中で向き合ってきたものの一つが、
そういう人間のどうしようもなさなのではないか。
そんなことを思った。

自分だって、たいして変わらない
そして、これは宗教者だけの話ではない。
自分自身を振り返ってみればよく分かる。
いつでも正しく、
誰にでも優しく、
欲に振り回されず、
腹も立てず、
怠けず、
人を傷つけず、
毎日やるべきことをきちんとやる。
そんな人間でいられたら立派じゃ。
けれど、実際にはなかなかできない。
仕事で苛立つこともある。
無駄なことをしてしまうこともある。
人に対して良くない感情を持つこともある。
やると決めたことをやらない日もある。
楽な方へ逃げることもある。
自分の利益を優先したくなることもある。
「こうありたい」と思っている自分と、
実際の自分との間には、
いつも少し距離がある。
だからといって、
「人間なんてそんなものだ」
で終わらせてしまうのも違うと思う。
聖人君子になるのは難しい
聖人君子という言葉がある。
徳が高く、人格的にも優れた人物。
そういう人になれたらよい。
けれど、現実の人間がそこまで到達するのは簡単ではない。
少なくとも自分は、
「今日から立派な人間になります」
と決意したくらいで、翌日から別人になれるとは思えない。
おそらく来週も失敗する。
来月も間違える。
何年たっても、腹を立てることくらいあるじゃろう。
では、立派な人間になれないのなら、
努力する意味もないのか。
そうではないと思う。
完璧な人間になれなくても、
昨日より少しましな人間であろうとすることはできる。
大切なのは、聖人であることではなく、そうあろうとすること
もしかすると、
「立派な人間」とは、
一度完成してしまった人のことではないのかもしれない。
間違える。
反省する。
またやってしまう。
また反省する。
少し直す。
また失敗する。
そして、また直す。
その繰り返しなのではないか。
そう考えると、自分が定期的に深川不動堂へ行く意味も少し分かる。
護摩の火を見ながら、
今週の自分はどうだったか、と考える。
良かったこともある。
良くなかったこともある。
できたこともある。
できなかったこともある。
それを一度認める。
そして、
「では来週はどうするか」
と考える。
人間は、一週間で聖人にはならない。
一年たっても、おそらくならない。
一生かけても、なれないかもしれない。
それでも、
少しでもそうありたいと思う。
その姿勢だけは、自分で選ぶことができる。
習慣になると、場所の意味が変わる
一度だけ訪れた場所と、
何度も通っている場所では、
同じ場所でも意味が変わってくる。
最初は、
「深川不動堂へ護摩を見に行く」
だった。
それが何度か通ううちに、
「今週も深川堂へ行こう」
になった。
さらに続けていると、
「深川堂へ行って、一週間を終えよう」
になってきた。
場所そのものは変わっていない。
変わったのは、自分とその場所との関係である。
これは寺に限らない。
いつもの喫茶店。
いつもの公園。
いつもの銭湯。
いつもの図書館。
毎週歩く道。
何度も通ううちに、
ただの場所が、
「自分を戻す場所」
になることがある。
そういう場所を一つ持っているのは、
案外、大切なことなのかもしれない。
だから、また火を見に来る
深川不動堂で護摩の火を見て、
富岡八幡宮へ参る。
この二つを続けて訪れたことで、
この日は「祈る」ということについて少し違ったことを考えた。
祈ることは、
自分を立派な人間だと思うためにするものではないのかもしれない。
むしろ、
自分も間違える人間なのだと確認する時間なのかもしれない。
自分にも欲がある。
弱さがある。
怒りもある。
怠けることもある。
だから、ときどき立ち止まる。
今週の自分を振り返る。
良くなかったところは反省する。
できたことには感謝する。
そして、
「来週はもう少しましにやってみよう」
と思って帰る。
それでよいのかもしれない。
完璧になることより、
何度でも自分を見直すこと。
聖人君子であることより、
そうあろうとし続けること。
護摩の炎を見ながら、
そんなことを考えた。
また一週間生きる。
また失敗するかもしれない。
それでも、またここへ来ればよい。
火を見る。
ぼーっとする。
一週間を振り返る。
反省する。
泣きたければ泣く。
そして、
「よし、来週も頑張るぞ」
と思って帰る。
人生の大部分は、
劇的な一日ではなく、
こういう普通の一週間の繰り返しでできている。
だからこそ、
一週間ごとに自分を少しだけ修正する。
それを何年も続けた先に、
自分が「こうありたい」と思っている人間へ、
ほんの少し近づいていけるのかもしれんのう。
さて。
あなたが「こういう人間でありたい」と思っている自分と、
今の自分との間には、
どんな小さな違いがあるじゃろうか。

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