水滸伝を読んで考えた、「頭のいい人」より「人が集まる人」になりたい

水滸伝_講談社
水滸伝_講談社

以前、東京ステーションギャラリーで水滸伝の展覧会を見た。

それまで『水滸伝』は、「いつか読もう」と思いながら、なかなか手を出せずにいた作品だった。

長い。

登場人物も多い。

中国の古典だから、少し構えてしまうところもある。

そこで最初は、原典を最初から最後まで読もうとせず、2011年版の中国ドラマ『水滸伝』をサブスクリプションで見始めた。

ところが、見ているうちに面白くなってきた。

結局、講談社の『水滸伝』も読み始めた。

ドラマを見る。

本を読む。

分からない人物や時代背景が出てきたら調べる。

そんなことを繰り返している。

以前は「いつか読もう」だった水滸伝が、展覧会をきっかけに、いつの間にか自分の日常の中へ入ってきた。

そして読み進めているうちに、二人の人物が気になるようになった。

呉用と宋江である。

呉用のような人間になりたい

最初に惹かれたのは、呉用だった。

呉用は梁山泊の軍師として知られる人物で、「智多星」という異名を持つ。

その名の通り、知略をめぐらせ、状況を読み、人を動かし、策を立てる。

自分はこういう人物が好きなのだと思う。

腕力で突破するのではない。

状況を分析する。

相手の動きを読む。

手持ちの人材を見て、

「この人間をここで使えばいい」

と考える。

そして全体を設計する。

仕事に置き換えてみれば、

戦略を立て、

必要な人間を配置し、

問題を分解し、

全体を動かしていく。

軍師というより、現代なら参謀やプロジェクトマネージャーに近いところもある。

だから呉用を見ていると、

「こうなりたい」

と思う。

もっと知識をつけたい。

もっと先を読めるようになりたい。

複雑な状況でも冷静に構造を見抜ける人間になりたい。

知恵によって大きな仕事を動かせる人になりたい。

呉用には、そういう憧れを感じる。

でも、梁山泊の中心にいるのは宋江だった

ところが、水滸伝を見たり読んだりしていると、

だんだん別のことが気になってきた。

梁山泊には強い人間がいくらでもいる。

林冲がいる。

武松がいる。

魯智深がいる。

そして呉用のような知恵者もいる。

それなのに、多くの豪傑たちが集まっていく中心には宋江がいる。

宋江は、最強の武人ではない。

呉用のような軍師でもない。

それでも人が集まる。

なぜだろう。

水滸伝の宋江は「及時雨」と呼ばれる。

困っている人を助け、人との義理を重んじる人物として描かれる。

自分のところへ来た人間を受け入れる。

相手の過去だけを見て切り捨てない。

人のために動く。

だから、さまざまな事情を抱えた豪傑たちから慕われていく。

これを見ているうちに、

「呉用には憧れる。でも、人間としてなりたいのは宋江なのかもしれない」

と思うようになった。

頭がいいだけでは、人は集まらない

仕事でも同じなのかもしれない。

知識は必要である。

戦略も必要である。

技術も必要である。

正しい判断ができることも大切だ。

けれど、

それだけで人がついてくるとは限らない。

どれだけ優秀でも、

困ったときに助けてくれない人。

自分の利益しか考えない人。

失敗した人間をすぐに切り捨てる人。

そういう人の周りには、

長い時間をかけて人が集まるのは難しいだろう。

反対に、

「あの人が困っているなら助けよう」

と思ってもらえる人がいる。

能力だけでは説明できない。

それまでにどう人と接してきたか。

誰かが困ったときにどう振る舞ったか。

受けた恩を覚えているか。

約束を守ったか。

そういう小さな積み重ねが、

最後には人間の信用になるのだと思う。

「義」という言葉

水滸伝を読んでいると、

何度も「義」というものについて考えさせられる。

現代では、少し古臭く聞こえる言葉かもしれない。

けれど、自分には妙に響く。

義とは何なのだろう。

単に仲間を無条件でかばうことではないと思う。

まして、悪いことをした仲間まで正当化することでもない。

自分なりに考えるなら、

損得だけでは決めないこと。

受けた恩を忘れないこと。

困っている人を見捨てないこと。

約束したことに責任を持つこと。

そして、自分の都合だけではなく、

相手に対して筋を通すこと。

そんなものなのではないかと思う。

これは簡単そうで、難しい。

人間はどうしても、

自分が得をする方へ動きたくなるからだ。

だからこそ、

損得以外の基準を一つ持っておくことには意味がある。

懐の深い人間になりたい

宋江を見ながら、もう一つ思う。

懐の深い人間になりたい。

人間は、きれいな部分だけではできていない。

失敗もする。

弱いところもある。

腹が立つこともある。

過去に何かを抱えている人もいる。

もちろん、何をされても許せばよいという話ではない。

距離を置かなければならない相手もいるし、守るべき一線もある。

それでも、

人間の一部分だけを見て、

すぐにその人全体を決めつけるような人間にはなりたくない。

「こいつにも事情があるのだろう」

と、一度考えられる余白を持ちたい。

それが、自分にとっての「懐の深さ」なのかもしれない。

呉用と宋江、どちらかではなく

考えてみれば、

呉用と宋江のどちらか一人を選ぶ必要はない。

呉用から学びたいのは、知恵である。

物事をよく見て、

考え、

先を読み、

複雑な問題を解いていく力。

宋江から学びたいのは、人との向き合い方である。

義を重んじ、

人を受け入れ、

困った人を助け、

「あの人のためなら」と思ってもらえるような生き方。

仕事をするうえでは、

呉用のように考えられる人間になりたい。

けれど、

人間としては、

宋江のように懐の深い男になりたい。

理想を言えば、

その両方を持ちたい。

頭で人を動かすだけではなく、

人柄によって人が集まる。

知恵があり、

それを自分だけのために使わない。

能力が高くなればなるほど、

その能力を誰のために使うのかが大切になる。

水滸伝を読んでいると、

そんなことを考える。

物語の人物を、自分の鏡にする

もちろん、宋江も呉用も小説の登場人物である。

しかも『水滸伝』は長い時間をかけて成立してきた物語であり、二人とも単純な「理想の人物」としてだけ描かれているわけではない。

宋江の選択には賛否がある。

呉用の策にも、現代の倫理から見れば到底そのまま肯定できないものがある。

だから、

「宋江のように生きれば正しい」

という話ではない。

むしろ面白いのは、

欠点も矛盾もある人物を見ながら、

自分ならどうするかを考えられることなのだと思う。

歴史や古典を読む意味の一つは、

昔の人の答えをそのまま受け入れることではなく、

彼らを鏡にして、

今の自分を見ることなのかもしれない。

東京ステーションギャラリーで水滸伝を見た日には、

ここまで考えるとは思っていなかった。

「いつか読もう」と思っていた物語を、

とりあえずドラマから見始めた。

そこから本も読み始めた。

そして今度は、

「自分はどんな人間になりたいのだろう」

というところまで来た。

これだから古典は面白い。

何百年も前の物語なのに、

登場人物を追いかけていると、

いつの間にか現在の自分の話になっている。

ふむ。

呉用のような知恵を持ちたい。

そして宋江のように、懐が深く、義に厚い人間でありたい。

もちろん、そう簡単にはなれんじゃろう。

でも、

「どういう人間でありたいか」

を決めておくことには意味がある。

迷ったとき、

自分が戻る方向を教えてくれるからじゃ。

さて。

あなたが物語の中から一人だけ、

「この人の、ここだけは自分も持ちたい」

と思う人物を選ぶとしたら、

誰じゃろうか。

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「限りある人生を、どう生きるか。」
そんなことを、よく考えています。

まだ修行の途中。

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